目の眼京都迷店案内

其の伍拾伍独華陶邑/ギャラリー白田

2021.09.14


 京都には人の人生に大きな影響を及ぼすような、個性的な方がたくさんいる。そしてそんな方の周りには、必然的に魅力的な人が集まるのは道理である。今出川にある「李青」は、以前ご紹介した「寺町李青」の鄭玲姫さんが24年前に開いたお店だ。そこで使われている食器類は今の作家の作ったものが多いが、みな使い込まれてなんとも言えない佳い味わいになっている。特に土ものは骨董と見紛うようなモノもあるのだが、ある時、誰が作ったモノかとお聞きすると石井直人さんだという。それ以来、石井さんの名前とその器のイメージは私の裡に埋め込まれていたのだった。
 それが昨年の春に思いもよらぬ形でご本人にお目にかかることになる。ある日、鄭さんから花山椒を摘みに行かないかとお誘いを受けて伺ったのが、石井直人さんとすみ子さんご夫妻のご自宅であった。「独華陶邑」は石井さんの陶房であり、「ギャラリー白田」は、手仕事を応援するすみ子さんが営むギャラリーである。水田に水が張られる前の田圃の一本道の突き当たりに石井さんのお宅はあった。入り口に獣害除けを兼ねたゲートがあり、少し傾斜の在る小径を上がると藁葺き屋根の大きな古民家が見える。手前に小さな応接を兼ねた建物が、奥にはギャラリーと窯場があった。庭には折り畳み式のテーブルと椅子が置かれ、まるでA・ワイエスの画のようである。

 石井さんは1954年に芦屋で生を受けるが、その後直ぐにお父様の仕事の都合で京都の衣笠に引っ越すことになる。子供の頃から、泥水の中に入って遊ぶのが好きなやんちゃな子どもだった。一方で大学教授をしていたお父様から原稿用紙の反故をもらい、よくそこに絵を描いていたという。その後一家で長岡京に引っ越し、高校生まではそこで暮した。その後大学で広島に行くことになるが、それが石井さんにとって一つの大きな転機となった。
 広島大学の総合科学部で地域文化を研究する学科に入学するも、実際には学校の授業そっちのけで、被差別問題や芸南地区の火力発電所の反対運動の手伝いなどをしていたという。その中で土と向き合うことになる。
「水俣病もそうなんですが、環境問題にもの凄くショックを受けて、自分に何が出来るのかと考えた時に、何となく土じゃないかなと思ったんですね。農業なのか、あるいは何か造形的なことをするのかということも分からぬまま、広島市内から県境のすごい山奥に知り合いと一緒に入り、米作を中心に農業をやりました。ところがいろいろあって、結局魂が抜けるみたいになって関西に帰ってくるんです。気がついたら蕎麦屋の出前みたいなことをやっていたのですが、30歳になる手前で伊賀の福森さんのところに行くことになるのです」。
 それにはこんな経緯があったという。
「広島を引き払う時に、とても世話になっていた古本屋に挨拶に行くと、ちょうど白洲正子さんの本が置いてありました。隣にいた中年の人に『これ、ええ本やで』って言われて買ったんですが、それに福森雅武さんが載っていました。それが無ければその存在に気づきもしなかったと思います。僕は導かれるように土楽窯を訪ねました。
『お前、今まで何してたんや?』と福森さんに聞かれたのですが、農業していたので見せられるものもなく、手慰みで描いていた水彩画見せたんですよ。すると久松真一さんの『禅と美術』という本を持ってきはって、ばっと開けたところが宮本武蔵の枯れ木に止まっている百舌の画でした。『こういう世界があるで』と言われ、それを見た瞬間に、頭を殴られた様な衝撃を受けました。ここに入ればきっと勉強になると思い、それから3年半御世話になりました」。

 石井さんは土楽窯を辞めた後、沖縄から屋久島、種子島とやきものをしながら自分の窯を築く場所を探し続ける。なかなか良い処が見つからなかったが、37歳の時に漸く今の場所と出合い、土地を購入する。知人に建築家を紹介してもらい、先ずは小屋を作り、次に窯を築き、最後に藁葺きの母屋を移築する。そしてその建築家の事務所に入って来たのが、後に石井さんの妻となるすみ子さんである。
 すみ子さんは福岡生まれで、大学で古典を勉強するために京都に来たのだという。
「立命館で万葉集を学んでいたんですけれど、興味があったのは住まいなのです。それで建築に行くのですが、建築というよりは、その背景にある文化やものが好きなんですね」。
 ある時、道に迷っていた時に偶然出合ったのが今出川にある「李青」であった。不思議な佇まいにすっかり魅せられたすみ子さんは、中に入って店主の鄭玲姫さんと語り合い、設計した人の名前を教えてもらうと、気になっていた設計士と同じ人だった。そしてすみ子さんは、その設計士の事務所に入ることになり、石井さんと出逢うのだから、まるでドラマのような話だ。
「僕はどうやら1992年くらいに、鄭さんと知り合っているんです。空間というのを考えた時に、李朝に興味が出ましてね。ある骨董屋に行き始めました。そこに出入りしていた中国人の方から紹介してもらったのが鄭さんでした。初窯が93か94年くらいですから、自分で陶芸をやり始めた頃に出会ったんですね。でも高麗美術館のことは全く知りませんでした。ただ僕が大学生の時に、広大に朝鮮史セミナーというのがあったんですよ。今考えるととても先進的なセミナーで、朝鮮の近代史をレクチャーしていたんですね。だから話が合ったんじゃないかと思います。鄭さんがまだ李青を始める前のことですね」。
 その後、石井さんはすみ子さんと出逢うのだから、鄭さんと石井夫妻は不思議な李朝の縁で結ばれていたのである。

 すみ子さんは念願の建築の仕事に従いたが、外から作っていくことに違和感があったという。一年ほどで事務所を辞めて、石井さんのところにやって来た。やきものの手伝いをしながら、モノの背景にあるものを探ったり、伝えたりできないかと考えて、展示会を開いたり、工藝新聞「タタター」を作り始めた。「タタター」とは「真如」、つまり「あるがまま、そのまま」という意味である。今は紙に惹かれて、「ミエルかみ」展という展覧会を企画し、開いている。また、すみ子さんのセレクトしたモノやディレクションした衣服は人気があり、ウェブサイトでは常に売り切れている。

 最近は二人に憧れて、近隣の丹波篠山や和知などに移住する若者が増えていると聞く。「貴方と出会って、私の人生はとんでもない方にいった」などとよく言われるそうだが、石井さんの生き方はとても魅力的だ。髪にはには白いものが交じり始めたが、瞳の奥には好奇心に満ちたやんちゃな光が宿っている。すみ子さんの苦労はまだまだ続きそうである。

(上野昌人)

店名 独華陶邑(どっかとういう)/ギャラリー白田(はくでん)
住所 京都府船井郡京丹波町森山田7 >>Google Mapへ
電話番号 0771-82-1782
URL https://www.dokkatouyu.com
営業時間 土・日曜日 企画展以外は常設展示
アクセス:京都縦貫自動車道丹波ICより車で5分
※詳細はHPをご覧ください。