目の眼京都迷店案内

其の伍拾四ラ・ヴァチュール

2021.08.17

 岡崎にある「ラ・ヴァチュール」はタルトタタンで有名なお店である。タルトタタンとは、型の中にバターと砂糖で炒めたリンゴを敷きつめ、その上からタルト生地をかぶせて焼いたフランス菓子のことをいう。そして「ラ・ヴァチュール」は、今年開店50周年を迎えた。現在の店主は二代目の若林麻耶さんである。初代は松永ユリさん、麻耶さんの祖母にあたる方だ。そしてお父上が建築家の若林廣幸さん、ご母堂はジュエリーデザイナーで台湾素食料理研究家でもある松永智美さんという錚々たる顔ぶれのご家族である。


 麻耶さんは、現在「ラ・ヴァチュール」がある場所で生まれ、祖母と祖父の辰夫さんがお店で働く姿を見て育った。学区の小中学校に通っていなかったので、近所に友だちは少なかったという。その分、祖父母と遊んだり、リンゴ剥きや、店を手伝うことも多かった。学校から帰り、店の扉を開けるとリンゴを炊く良い香りがしていたのが忘れられないと麻耶さんはいう。高校は京都市立銅陀(どうだ)美術工芸高校、大学は武蔵野美術大学の空間演出デザイン学科で学んだ。こういう履歴をお聞きすると、卒業後は空間デザイナーかグラフィックデザイナーになる場合が多いのだろうが、麻耶さんはお店を継ぐことにする。それにはこんな経緯があったようだ。
「大学3年の時に、”Confrerie des Lichonneux de tarte tatin”というフランスのタルトタタン愛好家協会から祖母が招待され、年に一度おこなわれているお祭に参加することになりました。祖父は留守番でしたが、店を一人ではできないので、私は一週間ほど手伝いに京都に戻ってきました。あらためて店を見ると、傷んでいるところがたくさんあり、そのことを久々に会った高校の同級生に話すと、翌日、二人でペンキを塗り替えることになりました。店内もいろいろ直していくと、そこから空気が入れ替わったんですね。大学4年のタイミングで祖母から店を辞めようと思っていると聞き、長年続けてきた店、なによりタルトタタンをこのまま終わらせてはいけないと、卒業と同時に店を継ぐ決心をしました。
 それまでは、デザインの仕事をするつもりでいましたし、店を継ぐということを考えたことはなかったのです。でも店を変わらず続けるためには、変えていかなければならないところがたくさんあり、デザインを学んできたことが大きく活かせる場所でもあると思ったんです。最初、父には反対されましたが今では応援してくれています」。



「ラ・ヴァチュール」の前身である喫茶「紅屋」が祇園に出来たのは、1959年のこと。そして1964年、画廊「紅」へと業態は変わるが、走泥社の作家たちや多くの芸術家たちの出入りするサロンのようになっていったという。1971年に画廊「紅」は岡崎に移転し、それと同時にフランス料理店「ラ・ヴァチュール」がオープンした。この頃、店に来られた現代美術家の井田照一さんが、紙ナプキンに落書きした乳母車の絵が今の店のロゴマークとなっているという。それをお聞きして私は嬉しくなった。ついこの間まで京都にいた伝説の芸術家の姿が垣間見えたからである。
 そしてタルトタタンに魅せられたユリさんの想いは途絶えることはなく、孫の麻耶さんへと受け継がれたのである。麻耶さんのご母堂の松永智美さんは料理研究家として著名な方で、特に台湾素食料理に精通されているが、それも祖母のユリさんと深い繋がりがある。


 ユリさんは大正7年に徳之島で生まれ、戦後京都にやって来るまで、台湾で小学校の先生をしていた。そのため家のご飯も台湾料理が多く、いまでこそ珍しくはないが家には苦瓜が植えられていたそうだ。その時の教え子たちが京都にもよく来ていて、ご母堂が台湾の精進料理を学んだのも、そのご縁からだという。
「パティシエでも料理人でもなかった祖母は、60歳近くからタルトタタンを焼きはじめたのですが、私も同じくお菓子も料理も学んだことはありません。子供の頃から祖母の側でその姿を見ながら、自分で焼くようになり、タルトタタンはお菓子と言うよりは表現の先にあるものだと思ったのです。私にとって作品と、タルトタタンを作ることは同じ行為で、目指す形があって、その目標に向かって進んでいくという感じです。それは祖母も私も変わりません。ですからデザインや芸術を学んでいなかったら、私はたぶん店を継いでいなかったと思います」。

 「ラ・ヴァチュール」のタルトタタンは、林檎の酸味と甘みが絶妙なバランスで美味しいが青森県産のフジをメインで使っているそうだ。
「フジも農家さんから直接仕入れたいんですが、農家さんは冷蔵庫を持たないので、年間を通じてリンゴを確保できません。ですからメインのリンゴは冷蔵庫があるところから仕入れて、それ以外の種類のものは農家さんから直接仕入れたりしてます。綺麗な状態のものが店に並びますが、大半はキズがいってたり、形が悪かったりするものが多いのです。お店のタタンには敢えてそういうものを使っています。そもそもいい林檎って何なのかという話なんですけれど、タタンの場合は酸味が強く、蜜が入っていなくても美味しいので、そういう林檎の方がかえって良かったりします。キズを取ったり、手をかけるだけで味はとても美味しくなるし。今、大きくて綺麗なリンゴを作ってもなかなか売れなくなっていますが、立派なものじゃなくていいので、店のタタンに合うリンゴを自分で作りたいと考えています」。
 今時、一人っ子は珍しくはないが、若林家は御両親と御本人が一人っ子という珍しい家族である。その所為というわけではないのだろうが、三人とも独立しているのだという。家族なので、もちろん仲はいいし、相談事があれば意見を求める。しかし最終的には自分で決断する。この当たり前のようなことが結構むつかしいのだが。麻耶さんは「家庭内独立」だと笑っていたが、祖母のユリさんのアートとタルトタタンを愛する熱い血が、母の智美さんを通じて麻耶さんの中にも流れている。「変わらないためには、変わり続けていかなければならない」。それは、芸術という視点があったからこそ見えた道なのであろう。因果は巡る。世の中に存在していることには、総て理由があるのである。
 いま麻耶さんはデザインやアートディレクションの仕事もしている。「ラ・ヴァチュール」という名前には乳母車という意味もあるそうだが、50周年をスタートラインに、麻耶さんの冒険はまだ始まったばかりだ。

(上野昌人)

店名 ラ・ヴァチュール(LA VOITURE)
住所 京都市左京区聖護院円頓美町47-5 >>Google Mapへ
電話番号 075-751-0591
URL https://voiture.buyshop.jp
営業時間 11:00~18:00 (17:30L.O.)
定休日:月曜日(年に数回臨時休業あり)
アクセス:京阪鴨東線神宮丸太町駅より徒歩15分、京都市バス熊野神社前より徒歩5分