目の眼京都迷店案内

其の四拾九盆栽研究家 川﨑仁美さん

2021.03.16

 川﨑仁美さんと初めてお目にかかったのは、知人の小説家がある賞を受賞したお祝いのパーティーだった。小説家の交友関係を反映してか個性的な面々が顔を揃えていたのだが、映画「パリ、テキサス」のジョン・ルーリーのごとく、振り向いたその一瞬で強烈な印象を私に遺した女性が川﨑さんであった。以前、この稿でも書かせてもらったギャラリーYDSでも後日お目にかかる機会があり、名刺交換をしてそこで初めて川﨑さんが盆栽研究家であることを知った。以来、岡崎で毎年おこなわれている盆栽展のご案内を戴いたりしていたが、話しをする機会はほとんどなかった。それは私が盆栽のことをよく知らないからというよりは京都の女性が苦手であるという、それだけの理由だったのではあるが。



 盆栽は「生きている骨董」といわれる。骨董やアンティークに魅せられた人は少なくないし、家族の誰かが骨董が好きで、その影響を受け知らないうちに好きになったという話も時々聞く。しかしふと見かけた盆栽展のポスターに魅せられて、実際に足を運んだ女子高生がいるという話は川﨑さん以外、聞いたことはないし、多分これからもないのではないだろうか。
 「毎年11月に開かれる日本盆栽大観展という全国の名品が集まる展覧会が京都であるんですけれど、そこで初めて樹齢300年の黒松を一目見て、直観で、これや!と思いました。見方や価値も分からなかったんですけれど、これは依代(よりしろ)やと思ったんですね。今まで、数百年の古い木はご神木しか見たことがなかったんですが、ご神木がひと鉢に収まってるってどういうことやと、衝撃で動けなくなってしまって。10分くらい呆然としていたんですね。でもそれを見てるうちに、もしかしたら自分が知りたい日本文化の要素がここに全部集約されているのかもしれないと想い始めました。盆栽はアミニズムというか、ご神木級になれば巨木信仰の影響もあると思うんです。もちろんキリスト教をはじめ、宗教全般興味があります。美術の始まりもやっぱり、宗教美術ですし」。
 その場にたまたま居合わせた盆栽雑誌の編集長に声をかけられ、ナビゲーターモデルとなるのだが、川﨑さんの盆栽とともに歩む人生はそんな風に始まる。それが高校3年生、18歳の時のことだった。


 川﨑さんは生まれも育ちも京都である。もともと川﨑家は御所に仕える武家だったという。東京遷都や戦争を経て、お祖父様が商売を始め会社を興した。分家の気楽さも手伝い、田舎暮らしに憧れたお父様は洛北の岩倉に家を建て、川﨑さんはそこで生まれ育った。少女時代はバレエをやっていたそうで、今でもお洒落な洋服を身に纏(まと)い、決してヲタクという感じはしないのであるが、女子高生の盆栽ライフはかなりマニアックなものだったようだ。
 「雑誌で最初に何をしていたかというと、週末になると地方の盆栽屋さんにお願いして、盆栽作りの名人の方たちをお訪ねするという企画のモデルでした。盆栽作りもマンツーマンで教えて戴き、今どきの女子高生は、こういう感性で盆栽を作るのかという例ですね。名人が作ったものや、教わりながら作った鉢をもらって帰って、自分で育てるという日々でした。育て始めると楽しくなり自分でも鉢を購入して、ベランダに30~40鉢くらい並べるような生活を最初の4年間はしていました」。

 特に新しいとか古いものというように区別はしていないけれど、高校生の頃から古いものに惹かれていたという。「一番最初に買ったのは古い着物でした。江戸時代の友禅かな。小ちゃくて着れなかったんですよ。その頃はすでにお洋服好きやったんですが、それにはない色と生地の感覚に猛烈に惹かれて、着れへんけど買ってしもた、眺めるだけみたいな。当時、北白川に「梵(ぼん)」という着物と古裂を扱う骨董屋さんがありました。通学のバスからいつも見えていたんですが気になって。ある日、よしと思って途中下車して。高2くらいやったかな、アルバイトしていたのでお金を持つようになり、何か買いたいと。当時は着物ってまだ今のように見直されていない時代だったので、ものすごく安くていい着物がたくさんあったんです。今着物とかいろいろ見ると、あの頃、見た着物のことを思い出すんですよ、フラッシュバックのように。絶対に忘れられないものってあるんですよね」。



 20代は盆栽の周辺と歴史を学ぶ時期でもあった。20代の終わりに京都工業繊維大学大学院の造形工学科に入り、修士を取る。博士過程の1年目に、アメリカの財団から奨学金をもらい1年間、アメリカとイギリスの植物園の現場で働くという園芸留学も経験した。フィールドワークとファクトを積み重ねながら、盆栽にアプローチするが川﨑さんのスタイルでもある。
 ところで盆栽研究家とはいったいどんな仕事をしているのだろうか。原稿書きや講演が主な仕事だそうで、新聞や雑誌の連載の執筆、盆栽の講座をいくつか持っている。シンポジウムや大学の授業・講義もある。キュレーションも最近は多いという。構成・展示、そして解説ツアーなど。盆栽茶会をしてほしいなどの依頼にも応えている。
「歴史的に見たら茶の湯がメインですが、室町時代頃から盆栽の土が衛生的でないということで、茶席から外されていったんだと思います。でも今はそれもクリアされているので、新たな盆栽とお抹茶の接点が作れるのではないかと。今は形式が勝ちすぎているところがあるので、新しいお席をどう作っていくかということに興味があります。復刻することと更新して新しいものを作っていくこと、盆栽に関してはその両方が大切だと思うので。新しいことにトライしていかないとつまらない。お流派でちゃんとやってはるところがあるので、私はそれとは違うことをしたいのです」。


 最後に、これからの盆栽の在り方や未来についてお聞きしてみた。
「近代以降は芸術文化としての盆栽だったと思うのですが、そこのハードルが高くなってしまったんですね。これからは、見る人や育てる人が続いていかないと意味がないです。人間が死んでもモノは生き続けますから。伝承ということを考えると、もう少し芸術文化以前の生活文化の時代の盆栽に回帰することが大切ではないかと。そこに戻るというよりは新たな関わり方を更新するというか、環境を整えるということをしていきたいと思っています。
 盆栽は形も大切ですが生き物なので、毎日の水遣(や)りすることが一番肝心なんです。芸術だと考えると、室内で飾っていたら枯れましたとなりがちなので、先ずは育てることと鑑賞することをちゃんと理解してもらう。それをいかに生活習慣の中での盆栽として紹介していけるのか。今は自由過ぎるがために、身体の調子やホルモンのバランスを崩したりする人が多いので、朝から水遣りをするとか、まずお茶飲むとか、習慣によって調(ととの)えていく。それを取り戻すことが、日本人には合っている気がするので、盆栽を通じてそれを伝えていければいいなと思っています」。

 ある時、川﨑さんのSNSを拝見していると、曲水の宴で十二単を着て、歌を詠んでいる姿をお見かけしたがあまりに似合っていて吃驚(びっくり)したことがあった。18歳で盆栽に啓示を受けて、それ以降、日本文化を追究し続けている川﨑さんにとって、暮らしの総てが盆栽や美とともにある。川﨑さんを見ていると、近世以前の時代からふらりとやってきて、現代に紛れ込んだ旅人なのかもしれないと私は想うのだった。

(上野昌人)

店名 川﨑 仁美(かわさき ひとみ)
http://www.gendaibonsai.com
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