目の眼京都迷店案内

其の四拾八モリカゲシャツ(河原町丸太町)

2021.02.13

 基本的にこの稿は、人間が生きて行く上で必要な衣食住以外の嗜好品、つまり無くても差し障りのないものを一所懸命に作っているお店や人にフォーカスをしてご紹介しているつもりである。ただ何が自分にとって必要かは個人差があり、ある人にとっては音楽が、また骨董がないと生きて行けないという方もおられるので、なんとも言えないところではあるのだが。
 東京で以前取材させてもらったことがある知人が京都でお店を開くことになり、オープニングの案内をもらった。10年位前のことである。のちにいろいろな媒体で話題になったほど、町家を改装した斬新なお店だったので、東京の雑誌関係の人たちがたくさん来ていた。京都の人は少なかったが、名刺交換させてもらった中に森蔭大介さんと真弓さんの名前があった。東京から京都に引っ越して来てそんなに日も経っていなかったが、「モリカゲシャツ」の名前はオシャレに縁のない私でさえ知っていた。それ以後、森蔭夫妻と顔を合わす機会が増えたが、一度顔見知りになると街中でばったり出逢うのが京都の面白いところだ。しかしお店に伺う機会はなかなかなかった。

 今ではすっかり定番となっているようだが、ギンガムチェックやドットの大きさやピッチの違う布を組合わせたシャツを、ある時からよく見かけるようになった。たまたま入った珈琲屋の主人がそのギンガムチェックのシャツを着ていたので、どこのシャツかとお聞きすると「モリカゲシャツ」のものだという。とても洒落ている。これが森蔭さんの作るシャツなのか、ととても印象に遺った。それがある時、何かの文章のなかで大介さんは「シャツは日常の道具である」という言葉を使っておられるを見かけて、私はとても驚き、そしてとても好感を持った。なぜなら料理研究家・土井善晴さんの「家庭料理は民藝である」という名言を聞いた時と同じ匂いを私は感じたからである。

 大介さんは1970年京都に生まれた。お父様はグラフィックデザイナー、当時は意匠割付家と呼ばれていたが、自宅のスタジオには写真植字機や暗室があり、引き伸ばし機を使ったり、写植を切り貼りし、レイアウトしていた。そういうお父様の働く姿をを見て大介さんは育った。一方、お母様は20歳で結婚したが、当時は嫁入り道具として足踏みミシンを持っていくのがよくあることだった。既成の服はまだそんなになかったので、街の洋品店でオーダーして服を造るような時代だったから、簡単なものは自分で造っていたという。私の記憶の中にも、母親の踏むミシンのカタカタという音が残っている。ミシンで繕ったりすることが、ついこの間まで常の暮らしの中にあったのだ。「小学校くらいの時から自分の履いていたズボンをバラして、ミシンで筆箱を造ったりしてたんですね。母の見よう見まねで刺繍をしたりとか。だから洋服を作ると言うよりも、布を使って何かを作ることがその頃から好きでした。それが今の僕のモノ作りの原点で、その筆箱みたいなものが中学生になると鞄になり、高校生になった時に服に興味を持ち始めました。ちょうど僕の中学生後半から高校生の頃は所謂DCブランドが全盛でしたが、父の仕事を見ていましたし、母が持っていたミシンで何かを作り始めたというのが合わさって、たまたま服になったという感じです。その意味では今やってることと、全く変わっていません」。

 高校を卒業した大介さんは、一年間アルバイトでお金を貯め、文化服装学院の夜学に通い始めた。昼間は生地屋さんで働きながら、1991年に卒業する。当時はバブルは弾けた後であったが、アパレル業界の就職は引く手数多だった。しかし大介さんは東京に残らず、京都に帰る選択をする。それは東京で暮してみて、いくつか気がついたことがあったからだという。
「たくさん作ってたくさん売るっていうそういうムードが僕はとても嫌でした。『誰かのための一枚を作る』というやり方は景気がいい時に皆んなが考えもしないことでしたし、個にアプローチするということが、やっぱりやりたかったんです。世の中に対する反発というのがあったかもしれないし、もともと自分の古着を分解して自分や友達の服を作っていたところから僕のモノ作りは始まっているので、顔の見える誰かのために服を作るっていうことがやりたくなって来て。結局は就職しないで、京都に戻り、どこにも所属せず独りで仕事を始めました。京都に戻って来たもう一つの理由は、東京に行って分かったことは、東京の人は京都が好きだということです。だから東京でやらなくても京都に来て貰えばいいんじゃないかなと思いました。まだ京都ブームが来る前のことでしたが」。

 よく感じることではあるが、もの作りで上手く行っている人を見ると、マーケティングセンスのある人が多いように感じる。技術だけではなく皮膚感覚で顧客ニーズのわかる人。大介さんもそのセンスに長けているのではないかと話を聞いていて思った。そして1993年に三条のあるビルの一室にアトリエを構えることになるが、「誰かのための一枚の服を作る」仕事はまだ始まったばかりであった。そこで家賃の足しにしようとアトリエの一部を貸画廊にしていた時に、真弓さんがその場所で展覧会が出来ないかと訪れたのが二人の出逢ったきっかけだというから、人の縁とは本当に不思議だ。
 真弓さんは京都造形大を出た後、百貨店のマネキンを着替えさせるデコレーターのアシスタントをしていた。睡眠時間も碌に取れないような激務の中で、ふと立ち止まった時に、いったい自分は何をやっているのだろうか、初心に帰って個展でもしようかなと思ったのだという。結局個展はその場所で開かれることはなかったが、程なく交際はスタートし、それから1年後、二人は結婚することになる。だが二人は一緒に「モリカゲシャツ」を始めたわけではなかった。真弓さんは一人目の子供を産んで、またデコレーターの仕事に復帰するも、二人目を産んだ時は流石に難しいと諦めた。そしてちょうど手が足りなくなった「モリカゲシャツ」の手伝いをすることになる。それが2000年のことだという。

「シャツは日常の道具である」「誰かのための一枚のシャツ」という二つの言葉に裏打ちされた「モリカゲシャツ」ではあるけれど、シャツへのこだわりについてお聞きしてみた。
「そもそもデザインということに対しても、崇高なバランスとか独創性とかそういうことではなくて、やっぱり機能が伴っていないと意味がないと僕は考えています。世の中にあるものでデザインとして残っているものというのは、きちっと機能が伴っている道具だと思ってるということと、デザインに関しての僕の考えというのは、そこで一致します。『誰かのための一枚を作る』ということが僕のポリシーですが、たとえば洋服だったら型紙とか、建築だったら図面が必要になるんですけれども、それは自分以外の人が作るから必要なわけです。だから自分で作るのならば図面とか型紙は必要ない。僕のモノ作りの原点としてはそこに自分らしさがあるのかなと思います。だから僕の作るシャツはあまりファッションぽくないんですよね。僕のパッチワークは一つの柄に見えるようにという自分のルールの中で作っていますから、見た目は派手でも着たらそうでもない。決して流行とか奇を衒った感じを追いかけているわけではないんですね。だから結果的に出来上がると同じようなものになってしまうんですけれど」

 「モリカゲシャツ」は会社として創業して20年余を超えた。一見、無愛想に見える大介さんと社交的に見える真弓さんの二人ではあるが、それぞれの役割を全うしながらファンを着実に増やして来た。夫唱婦随なのか婦唱夫随なのかよくわからないが、この二人の組み合わせは上手く出来ているのではないだろうか。それはまるで「モリカゲシャツ」の生み出すパッチワークのようなシャツと、とてもよく似ていると私は想った。

(上野昌人)

店名 モリカゲシャツ 京都店
住所 京都市上京区河原町通り丸太町上ル桝屋町 362-1
京阪鴨東線「神宮丸太町駅」徒歩5分、地下鉄東西線「京都市役所前駅」徒歩10分 >>Google Mapへ
電話番号 075-241-7746
URL www.mrkgs.com
営業時間 11:00~18:00(3月2日まで予約制)
水曜定休(年に数回臨時休業あり)
モリカゲシャツ 東京レセプション
住所:東京都渋谷区神宮前3-1-24 ソフトタウン青山1F

電話:03-6804-1373 

営業時間:13:00~18:00(2021.2月現在、予約制)
定休日:営業カレンダーをご覧ください