目の眼京都迷店案内

其の四拾七十宜屋(じゅうぎや)

2021.01.13

 今は京都市の末席に戸籍を置かせて戴いているが、それまでは東京から新幹線でよく通っていた。宿もビジネスからシティホテル、旅館もいくつか泊めさせてもらったが想い出に遺る場所や出逢いもいくつかあった。シンプルな朝食が付いた片泊まりの宿も好きだったし、ある旅館ではお茶室に泊めさせて戴いた。お風呂は共同、夕食は仲居さんと差し向かいで話をしながら戴いたが、何もかも東京から来た田舎者にとっては刺激的で愉しい出来事であった。やがて住むようになってしまったら、当然のごとく京都の宿には泊まることもなくなり、ときどき嘗て泊めて戴いた建物の前を通ると昔のことを想い出したりして、不思議な気持になることがある。一時期「暮らすように旅をしよう」というような広告が流行ったが、これなどはやはり東京の人が考えるキャッチコピーだなと想う。実際に京都に住んでみると、京都に「暮らす」ということと「旅をする」ということは、全く違うことだと分かるからだ。

 牟田誠一朗さんは1950年(昭和25)、京都・新門前通中之町に生まれた。新門前通は縄手通(大和大路通)を起点に花見小路を横切り、東大路までをいう。古門前通は知恩院の真正面に出るが、新門前通は一筋南にある。新門前通は江戸時代から骨董店が多かったが、明治維新でお茶が下火になると廃業する店が増え、それに代わって大名家の売立などで新興の骨董店が勢いを増してきたという。牟田さんの生まれた頃には多くの骨董店が新門前には店を構えており、昭和40年代頃からは外人観光客が増加して、有田の陶器や浮世絵などが人気になっていた。
 もともとは九州・佐賀のお侍の家系だったご先祖が1870年代に京都にやって来て、「錦商会」という有田や唐津の輸出用陶磁器を扱い始めた。日本が初めて万国博覧会に公式参加したのが1873年のウィーン万博であったから、輸出陶磁器が全盛を極めていた頃で、「錦商会」という名前は錦光山とも関係があったのかもしれない。牟田さんの曾祖父は1904年のセントルイス万博に参加していたという。

 牟田さんが京大で理数を勉強し、外資系のバンカーであったことはお聞きしていたのだが、なぜそんな方が実家であったとはいえ、一棟貸の旅館を始めたことに私はとても不思議な感じがしていた。今回いろいろとお話を伺って腑に落ちたのは、ご母堂がホスピタリティ溢れる方だったということと、1970年の大阪万博の時に民泊の申請を出して、期間限定の民宿をしていたことがあったそうで、この時も御母堂が全部宿泊客の面倒を見られていたのだという。牟田さんも宿泊の外国人客を美術館に案内するなどしていた。その記憶が外資系のバンカー暮らしに疲れた牟田さんの背中を押したのだろうか。牟田さんは京都に戻り、2013年(平成26)5月、生まれ育った自宅を改装し「十宜屋」をオープンすることになる。


「十宜屋」の建物は玄関部分が築百六十年ほどと古く、客室部分は大正バブル期に建てられている。流石におくどさんはなくなったものの、中庭や嘗て蔵があったという裏庭は昔の風情をそのままに遺している。牟田さんは裏千家のお点前もされるので、客間には炉と大炉が切られている。奥の間でお茶を教えておられた御母堂の影響だろうか、香炉や茶道具類が居間に飾られていて、古美術好きには堪らない空間となっている。塀の向こうは白川が流れ、春には桜が美しい。鳥の声など聞きながら、天気の良い日にお茶など戴ければ最高の気分である。
 インバウンド需要が在った頃は、月に休みが1日しかなく大変な時期もあったそうだが、コロナ禍の影響で今は日本人のお客様だけになってしまった。しかしこの仕事はやらなければならないことがたくさんあるから、常に気が休まることはない。ブッキング・ドット・コムの口(くち)コミランキングでここ数年第1位を続けておられるのも、そのような見えない努力があればこそなのであろう。
 牟田さんはバンカー時代に、2冊の共著も含めて金融関係の本を11冊書いておられる。内容はリスクヘッジやデリバティブなど専門的な内容なので、私などが読むべくもない本ではあるが、牟田さんの京都話は面白いので是非本を書いて戴きたいと想っている。ピアノを弾き、謡も詠じ、話も面白いとなればさぞや若い頃はオモテになったことだろう。いや、今でもモテているに違いない。本当に多才な方である。

 古美術好きの方であれば、「十宜屋」という屋号を観た瞬間にどこから名付けられたか直にピンと来ると想う。国宝にも指定されている池大雅と与謝蕪村の共作による「十便十宜図」から名付けられた。「十便十宜」とは、清初の戯曲家にして文人の李漁の漢詩の連作である。「十便」は住まい伊園の暮らしやすさ、つまり十の便利なこと。「十宜」のは周りの自然の美しさ、十の良きことを謳っている。連作の題は「伊園十便十二宜詩」となっているが、実際には「十便十宜」であり、大雅が「十便」を、蕪村が「十宜」を描いている。現在、この作品は現在川端康成記念館に収蔵されているが、家を買うのを諦めてこれを手に入れたというから、川端の執念もすごいと想うが、またどんな家を買おうとしていたのか興味は尽きない。
 2010年だったであろうか「古賀春江の全貌」という展覧会を、神奈川県立近代美術館葉山に観にいったことがあった。その中に「煙火」(1927年)という作品に私はとても惹かれたのだが、その作品は川端康成記念館の収蔵作品であり、川端が古賀の作品まで蒐集していたことに驚かされたことがあった。またその一年前には千葉市美術館で「大和し美し」でも川端と安田靫彦の交流を中心に展覧会が開かれていたが、ここにも「十便十宜図」が出品されていたような記憶がある。実は驚いたことに、牟田さんの御両親がお元気だった頃に、奥に住まわれていた女性を訪ねて川端がこの家を訪ねていたのだった。牟田さんが宿を開く時に、屋号を「十宜屋」としたのはそういう経緯があったからであった。

 牟田さんと知り合ったのは、この稿の第九回で取り上げさせて戴いた「菅藤造園」の菅藤恵輔さんからのご紹介であったが、「十宜屋」さんの裏庭は菅藤さんの仕事である。現在入り口横のギャラリースペースを改装中であるが、ゆくゆくは美術関係の方たちとコラボレーションして、お茶道具や美術品を中心としたサロンのような宿にしたいと牟田さんは考えている。文人墨客という言葉は死語かもしれないが、せめて「十宜屋」で十の良きことの一つでも味わってみたいものである。

(上野昌人)

店名 十宜屋(じゅうぎや)
住所 京都市東山区中之町246 >>Google Mapへ
電話番号 075-561-0865
URL http://jeugiya.jp/
営業時間 ※ご予約はお電話かホームページ、ブッキング・ドット・コムなどのインターネットの予約サイトから。
アクセス:京阪祇園四条駅、京阪三条駅より徒歩10分、市バス知恩院前より徒歩3分