目の眼京都迷店案内

其の四拾五よろず淡日(彦根)

2020.11.15

 「ブロカント(Brocante)」という言葉を最近よく耳にするようになった。「美しいガラクタ」が語源の、「古道具、古道具市」を意味するフランス語だそうである。なるほど。最近京都にもお洒落なブロカントのお店が増えてきていることも、主に女性が店主で客も女性が多いのも分かるような気がする。どうしても骨董や古道具というと、埃っぽい男の世界のような感じがしてしまうからだろうか。

 疋田実さんは2つの顔を持っている。1つは「よろず淡日」の店主であり、もう1つは介護士の顔である。これに現代美術家としての顔を加えれば少なくとも3つの顔を持っていることになる。
 疋田さんは1960年に大阪の都島で生まれた。ご両親は彦根の生まれであったが、近江商人の流れから戦後大阪で質屋を営んでいたという。大戦焼土から15年後の街場の者やモノの交わりの中で育った。小さい時は、悪さをして漆黒の蔵の中に放り込まれるのが何より怖かった。背中からモノたちの底知れぬ気配が迫ってくるような気がしたからだ。逆に少し大きくなると徐々にその怖さに分け入ってみたくなった。やがてそれらが自分にとってはかけがえのないモノになっていったという。

 小学生の時に父親に連れていってもらった興福寺や三月堂で、仏像を観て震えた疋田さんは仏師になりたいと思ったが、弟子入りを断られ、いろいろ考えた末、大学で福祉の勉強をすることになる。一見仏像を彫ることと福祉を学ぶことの間には距離があるように思えるが、疋田さんの中では同じことであったという。卒業後、やはり彫刻への想いを断ちがたく、京都市立芸大の名誉教授でもあった故山本恪二さんのアトリエへ通うことになる。「私が初めて仏像を観て、『これは一体何や!』と打ちのめされたのが興福寺の無著(むじゃく)・世親(せしん)像でした。この2体の仏像は肖像なんですよ。昔からある神仏集合のような自然を仏像の裡に観るという、要は形式でない真実味が自分にはしっくり馴染んだんですね。だから間に福祉や社会科学を挟んで人物彫刻に行ったのは、自分にはちょうど合っていたような気がします」。

 とはいえ彫刻では御飯が食べられない。今でこそお店と介護という道を見つけた疋田さんではあるが、それまでは学童保育をしたり、家具工場で職人というものと向き合ったりしながら右往左往していた人生だという。「山本先生の指導はアカデミックで、『人体に伏在する自然のフォルムの真実を見なさい』というようなやり方だったので、今考えるととても有り難いものだったんですけど、今を生きる者にとって彫刻が何の意味を持つのか、ということが段々分からなくなってきて。そういう時に出くわしたんが、古道具や骨董などのモノと障碍を持ってる人たちの造形でした。それらを観てハッと気づかされたんですね。いのちがあり、祈りがあり、作品や商品というよりも暮らしの中から素直に生まれてきたモノたち。そういうモノの存り様を感じたり、自分が生きていく中で古道具というものの存在が大きいのではないのかと想ったり。また障碍者の作っているものも人が生きていく上で、身体から計らいなく湧き出てくるものとして真実味がある。それと較べて自分がやってることは、作品を作り展覧会に出して、それを評価してもらうという、これはもっと根本から編み直さなあかんと想ったんですね。それで東京に行って古道具を探したり、障碍のある人の施設を見せてもらったりしながら、その2つにのめり込んでいきました。また各々の場所でご縁に恵まれ、教えを示してくれる人との出逢いを得ることが出来たことは、感謝の念に堪えません」。

 疋田さんを現代美術家だと先に書いたが、もともと現代美術は大嫌いだったという。それをひっくり返したのは、具体のメンバーでもあった故堀尾貞治さんとの出逢いであった。「堀尾さんの展示ばっかりやるギャラリーが大阪にあって、ちらちらと堀尾さんのことを横目で見てたら、ギリシャ彫刻の図録に落書きしてたんですよ。ギリシャ彫刻いうたら山本先生や僕らにとってみたら、崇高なもんです。それに落書きをしよって(笑)。ほんでね、『ようなったやろ』とか言わはるんですよ。絶対手つけたらあかんというのも在るんやけど、堀尾さんが一本すっと線を入れたら大概の彫刻が生きてくるんですよ。あ、この人こんなことできるんやと。そういう眼で見出したら、この人がやってることは総てがそういうことをしてはるんです。驚きましたね、現代美術は自然にあるものを取り出すという感覚じゃなくて、自己主張をするという世界やと想っていたから。堀尾さんが教えてくれたのは、自も他も、アートの枠も、民芸も民俗も、物も事も、心も形も、失敗も成功も。一切の隔たり無く、実現された現実というものの気持良さ。一人の心の有り様が、人の心や世界を揺り動かすことができるということでした」。

 50歳を迎えた頃に、疋田さんはそれまでの人生のまとめを考えるようになった。その時、ふと祖父母が住んでいた彦根の風景を思い出すことになる。曽祖父母が大正時代から開けていた、よろずや「塩半」は閉じられて建物は朽ちかけていた。大阪で生まれ育った疋田さんではあるが、夏休みや冬休みには日夏に遊びに行くと、いつも祖父母が仏壇に手を合わせていた。お店の前には金亀(こんき)観音に続く巡礼街道と小川の水が流れている。巡礼街道は江戸時代に朝鮮通信使が歩いたことから朝鮮通信使街道とも呼ばれていて、そこにある水の流れは近江商人が、特産品であった木地椀や布地を北や南へ運んでいたという。「丹波とか、いろんな田舎暮らしの場所は探しましたけれど、やっぱり自分はここなんだと気づきました。何でも総てが繋げられる場所、よう考えたらここの土地柄って、いろんなもんの境目の場所なんですね。東と西の境目の場所でもあるし、都と田舎の境でもあるし、嘗てこの辺りは渡来人の場でもありましたし、北と南、縄文と弥生と本当にいろんなモノが入り交じってる。彦根城があって戦争と平和、開国し近代と現代という意味でも、いろんなものが集約されている場所です。豊かな自然、山川湖、湧き水と共にここには何でもあるという気がします」。

 その境目を往来していたのが商人や芸人や願人だった。そこで疋田さんは、美術も道具も福祉も「よろず」を往来させて、一つの楽しさにならないかと考えた。「少し前まで当たり前にあった循環が、現代にどう形に為そうとしているのか見ていますが、そうなればいいなと。一昔前、この辺りには講というシステムがありました。それを彦根の人が大阪に持って行って、会社になったのが日本生命です。その昔は村で共有田を設け、そこで出来た作物を、その年困っている家へ貸し出したりしていました。そこから講が始まっているらしいです。寺や神社のお講もあるし、皆んなで助け合うシステムが村にあった。それを皆んなでちゃんと回していくというやり方はもともとあったことやから、それを今に即したものにすれば良いのだと思います。地産地消、商・工・芸、自治、教学、子育て、畏敬、祈り。総てが其処此処にあるものです。それらの伏流を見取ることで生まれる世界がある。道具も人も商品価値や生産性ではなく、その味わいとじっくり向き合い、呼吸すると、やがて骨董と福祉とアートがひとつの実を結ぶのではないでしょうか。そんな風に本来の文化というものを考えていきたい。できる範囲でやれたら面白いし、それを面白がってくれる若い人たちが出て来てくれるとありがたいのですが。私の役目はそれを絆ぐことかなと想っています」。そう考えた疋田さんは2015年に「よろず淡日」を日夏に開いた。
 

 お店には、放課後に立ち寄る子供たちのために駄菓子や玩具、デッドストックに混ざって古道具やがらくた、古本に堀尾さんの作品や奥様の描いた絵などが壁に飾ってある。また地域のものや土産ものも充実している。奥にはギャラリースペースもあり、時々企画展もおこなわれている。まさに「よろずや」の面目躍如たる所以であるが、たぶん一番それを愉しんでいるのが疋田さんご本人であり、それはまさに子供の頃、蔵の中で遊んだ原風景そのものではないだろうか。やがて駄菓子を買いに来る子供たちの中から、自分の跡を継いでくれる変りもんが出て来る日を待ち望んでいるのだと私は想う。そしてそれは小洒落た「ブロカント」からではなく、多分「よろず」から生まれるに違いない。

(上野昌人)

店名 よろず淡日(あわひ)
住所 滋賀県彦根市日夏町1979 JR東海道線河瀬駅下車北に2㎞。駐車場有 >>Google Mapへ
電話番号 0749-49-3890
URL http://blog.goo.ne.jp/gooawahi
営業時間 金・土・日・月曜日の11:00~17:00
※川﨑美智代展「反故と日常」 11/7(土)~11/30(月)  ※平安蚤の市 12月10日(木)京都・岡崎公園