目の眼京都迷店案内

其の六拾四アトリエ翠々

2022.05.27

ateliersuzu

京都にやって来る理由は、人の数だけある。加藤弥生さんは修学旅行以来、久しぶりに友人と一緒に京都に来たのだが、友人は途中で奈良に行ってしまい、一人残された加藤さんは染色家・杉本宏一さんの奥様が経営する中京の工房を訪ねることにした。50畳くらいの空間に、杉本さんが描いた大きな龍の絵があるという新聞記事をたまたま見たからだ。当時、加藤さんは東京の師匠のもとで手描き友禅の修行中だったが、この出逢いがその後の人生を大きく変えることになるとは思いもよらないことだった。

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加藤さんは東京の郊外で生まれ、曽祖父母の代から洋服を着ていて、和の暮らしとは縁遠い環境で育った。両親を安心させたいと女子大に進学したが、やはり自分の人生を生きたくなり中退し、藝大を目指すことにしたのだという。子どもの頃から芸術に囲まれて育った加藤さんには当然の成り行きだったのかもしれないが、残念ながらその夢は叶わなかった。
それがどうして和服に興味を持つようになったのだろうか。
「当時、私はコンセプチュアル・アートにとても興味があって、ヴェネチアやシドニーなどの国際展を見ていくうちに、世の中にはいろいろな表現があると感じました。その後、金沢21世紀美術館の柿落としを見るために金沢に行きましたが、帰りの飛行機まで時間があったので金沢の街を歩いていると、ある処で本格的な加賀友禅がたくさん並んでいるのを観ました。その時初めて、これは着る絵画なのだと。そして着物というのは日本人が持っている民族性をも絵画的、かつ立体的に表現できるものだと気づきました。そして、着物を自分の表現手段にしようと決めたのです。それまで自分が知っていた着物というと量産されたものでしたし、うちの家には和の文化がなかったことによって、もしかしたら、外国人が初めて本格的な着物を見た時に受ける感じ方に近いものがあったのかもしれません」。

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そこからの加藤さんの行動は早かった。東京友禅の作家の作品をいろいろ見た中で、絵画的に描写の正確な先生の門を叩く。
「当時、技法を身につけるには、とにかく友禅工房に弟子入りするしか方法がなかったんです。その時30代になっていましたが、歳が過ぎていると断られました。そんなに覚えたいんだったら、カルチャーセンターに行きなさいと言われましたが、それは違うと思って何度も先生の処に通いました。その先生は家業が代々友禅染のお家の方だったのですが、もともとは油絵を目指していたので、絵描きとしてやっていけない悔しさがあったようです。何回目かにデッサンや水彩画を見て戴いた時に、先生の気持ちが動いたんですね。漸く入門が許されました」。
日本画の勉強はしていたとはいえ、ひと回り年下の姉弟子の元で、窮屈な思いもしながら5年経った頃、加藤さんに転機が訪れる。40前には東京友禅組合でデビューした方がいいというアドヴァイスもあり、準備をしていた矢先に師匠が肺癌で急逝する。途方に暮れた加藤さんは、龍の絵をきっかけに親しくなった杉本さんに、即戦力が欲しいといわれて急遽上洛することに。東京友禅の世界も狭いので、京都で一から出直すのも良いかもしれないと思ったのかもしれない。加藤さんは杉本師匠の金閣寺にある工房の側にアパートを借りて、再スタートを切ったのが約13年前のことであった。
今でこそ、京都と東京の両方の文化の違いを経験することができて本当によかったと仰るが、並大抵の苦労ではなかったと想う。まずは二人の師匠の仕事の違いがあった。
「東京時代の師匠は、精密できちっとした絵を描く方でしたが、杉本師匠は自由でおおらかな画を描かれます。色使いから何から何まで対照的なお二人でしたから、ほとんど一からやり直しという感じでした。先生のところに寄せてもらってから、初めて京都という巨大な糸へん産業の街があることを知って、着物の流通ってどんな風になっているのか、商業的な側面にも触れさせて戴きました。自分はたまたま表現媒体として着物を選んだのが原点だったんですけれど、ユーザーの方と接点も出来て現代に着物を着る人たちがどう考えて、どういうシーンで着物を求めているんだろうとか、そこから学んだこともたくさんあり、現実的なファッションとしての着物というものも見つめ直すようになりました」。

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上七軒に工房を移して5年、「アトリエ翠々」と名付けた。加藤さんは誕生石をモティーフにした紋様をよく描いているが、宝石は高級品でハイファッションのイメージが強い。だが加藤さんにとっての誕生石は宝石というよりも鉱物であって、それは母なる地球からの贈り物であり、子供たちへ継いでいくもの。「アトリエ翠々」の「翠」も本当は、御母堂のお名前「瑠璃」から引き継いだ「翡翠」の「翠」をとって本名に付けたかった文字だったという。そこで加藤さんは「翠」の文字をアトリエの名前に付けた。ここにも母から娘への想いが継がれている。

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最近は展示会もグループ展だけではなくて個人で参加する機会も増え、個人的に仕事を発注してくださるお客様も現れた。今でも杉本師匠の指導を仰ぎながらの毎日ではあるが、最近考えていることがあるのだという。
「ある方から産衣のご注文を戴いたことをきっかけに、着物という民族衣装を次世代に継いでいきたいと強く思うようになりました。着物の構造の面白さというのを知ってもらうために、ミニチュアサイズの反物も一緒にお渡しすることも始めました。お子様が鋏を持てるくらいの歳になった時に、産衣でお召しなられたものと同じ絵柄の反物を鋏で切って、縫い合わせていくと着物が出来る、という新鮮な感動を体験して戴ければ嬉しいです。そこから着物の平面構造の仕組みの面白さや、着物に描かれる日本の四季の美しさ、身体を寄り添わせることで分かる自然観など、日本文化の素晴らしさが自ずと伝わるのではないかと考えています」。
加藤さんにとっての手描き友禅には、いろいろな想いが込められている。そしてそれは京都の伝統工芸の枠を超えた、まさにコンセプチュアル・アートではないかと私は想う。

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高祖父母はお茶の水にあるニコライ堂(通称)の創立メンバーだった。加藤さんは洗礼は受けていないが、子どもの頃からキリスト教、特に日本ハリストス正教会と馴染みが深かった。そのせいか、経済的には恵まれていないが精神的には豊かな東欧の国々が好きだという。子どもの頃から絵を描くことが好きだった加藤さんの中には、凛とした清廉な血が流れている。それはまさに加藤さんが描く、反物そのものではないかと私は想うのだ。

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(上野昌人)

店名 アトリエ翠々(アトリエ スズ)
住所 >>Google Mapへ
電話番号 075-354-6393
URL www.instagram.com/yayoi_3.29_green
営業時間 9時~17時(土・日曜、祝日定休)
※アポイントは電話かインスタグラムで