目の眼京都迷店案内

其の七拾とま屋

2022.11.15

京都に住み始めて15年になる。実感として「もう15年経ったか」という感じではあるが、京都の方の前では「まだ15年」と言うことにしている。一千年の都の歴史の中ではまさに「邯鄲の枕」ではないが、一瞬の出来事であるからだ。そういえばある出版社の社長と著者を訪ねた時に「髪の毛一本分遅れて行く」という言葉を聴いて、なるほどそういう言い方をするのかと感心した覚えがある。京都では毎日のように勉強になることがある、何の役に立つかは分からないが。

或る方からお誘いを受けて、若王子にある「とま屋」さんに伺った。一年前くらいのことである。永観堂のすぐ側に美味しい和菓子屋さんがあるとは聞いてはいたが、なかなか行く機会に恵まれなかった。ただこの時はあくまでも其の方とお会いするのが一番の目的であったから、お菓子のことはすっかり失念していたのだった。

若王子に向かう坂を東に向かうと南側にお店はあると地図にはあるが、入り口が見当たらない。何度か行き来するうちに、ここしかないと思われる格子戸を潜り、細い路地を抜けると、空が大きく広がっていた。なんと気持ちのいい空間だろう。永観堂の真北になる場所に玉砂利が敷かれた庭が広がり、その西側に瀟洒な日本家屋がある。よく見ると手前にお店らしい佇まいの入り口があった。おとなふと割烹着を着た女性が出てこられた。ご主人の勝原やよ飛さんである。知人はやよ飛さんと懇意のようで、だいぶん前に来ていた。庭に面したリビングに案内されると彫刻や古美術がさりげなく置かれていて、シンプルな空間と調和している。一番奥には古いスピーカーが置かれていた。総てが美しく、違和感を感じるものが何一つない。京都に来てからいろいろと素晴らしい場所を拝見して来たが、ここは特別な場所なのだと私は想った。

いよいよ噂のお菓子を戴く。この日は「わらび餅」と「白小豆の金団」の2種類。私は味音痴であるから微妙なニュアンスは分からないし、表現することは難しいが、「白小豆の金団」の甘さと「わらび餅」の柔らかさは衝撃的でさえある。ただ旨い! としか言いようがなかった。一人で2つ、3つと「わらび餅」を食べる方がおられるというのも頷ける。やよ飛さんにお聞きすると特にどこかで和菓子の修業したこともないという。忙しいご主人のために作った和菓子が美味しいと評判になったので、ご主人の実家があった三重県の四日市で和菓子屋を始めたのだという。

ここでやよ飛さんのご主人・勝原伸也さんの話を少ししようと思う。伸也さんは元々ジャズサックス奏者であったというから、自宅にあの立派なレコードプレイヤーがあるのも頷けるのだが、25歳の時に浮世絵と出合って衝撃を受け、版画家になる決意をしたという。そういえば、リビングにもモダンな版画が飾られていた。

伸也さんは誰かに教わることもなく、見よう見真似で版画を作り始めた。版画は絵師・彫師・摺師という本来は分業で作られている、ということさえ知らなかったという。逆に知らなかったからこそ一人でできたといえるのかもしれない。手探りで暗中模索が続く中、伸也さんが25歳の時、銀座で奇跡的な出会いがあった。それが浮世絵コレクターの故浦上俊朗さんである。その時初めて出逢ったばかりの青年を貸金庫に連れて行き、ご自分のコレクションの中から好きなものを一点選ばせ持たせてくれた。江戸時代に擦られた本物を見なかったら勉強は出来ないだろうと。以来、ご主人は浦上さんとの交流をきっかけに版画家としての道を歩むことになる。版画家・立原位貫(たちはらいぬき)という名前をお聞きになった方も多いと想うが、やよ飛さんのご主人は、その立原位貫だったのである。

二人は銀座の画廊で出逢ったという。この頃、伸也さんはすでに版画の制作に取りかっていたが、齢28歳、やよ飛さんが23歳の時に結婚する。そして伸也さんの実家でもある四日市に戻って制作に没頭する一方、やよ飛さんは「とまや」を始める。ご主人のために作った和菓子がこのような形で生業となっていく。

2002年、一家は揃って京都の若王子にやってくる。この場所はやよ飛さんが見つけ出したという。隣の家との塀の石垣を見て、ここだと思ったという。そして当時は木が鬱蒼としていて今の庭の面影もなかったが、ほとんどやよ飛さんが一人で庭を作りあげたというから驚く。秋は永観堂の紅葉が見事な借景となっていて、夜になると月が東山の空に映える。こんな美しい風景と空気を感じる場所が京都にはあるのだ。伸也さんはここで版画の全ての工程をほとんど一人で行っていた。その過労が祟ったのであろうか、残念ながら2015年、64歳の若さで亡くなったが、やよ飛さんは今もここで和菓子を作り続けている。

いつも思うのは多分、同じレシピで他の方が和菓子を作っても「とま屋」の味にはならないのではないかと想う。あの身体に染み込むような甘さと優しさは、やよ飛さんのご主人への想いそのものではないか。私たちはその愛のお裾分けを戴いているのではないか。

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やよ飛さんは不思議な人である。小柄で割烹着がとても似合うふんわりとした雰囲気の方なのであるが、これに騙されてはいけない。しっかり人もモノも吟味しておられるのを感じる瞬間がある。実は怖い人だ。お話をしていると驚くことばかりだが、一番驚いたのはやよ飛さんが私の中学の先輩だったことである。京都の若王子で埼玉の、それもかなりマイナーな蓮田という街で育った中学の先輩後輩が出会うことの不思議さ。

長男の大策さんは父の血を引いているのだろうか、スタジオミュージシャンに。長女の安位子さんは「アルテ・ビンクロ位貫」という会社を作り、立原位貫の作品の維持・管理・広報のために東奔西走している。

やよ飛さんは今日も和菓子を作る、それを楽しみにしている人たちのために。家族のために。そして亡きご主人と自分のために。

ginka

(上野昌人)

店名 とま屋
住所 京都市左京区若王子25 >>Google Mapへ
電話番号 075-752-7315
営業時間 13時〜17時 月曜日(加えて不定休につき要予約)
アクセス:市バス5系統「南禅寺永観堂道」下車徒歩約6分
/地下鉄東西線「蹴上」駅から徒歩17分