目の眼京都迷店案内

其の六拾五兜山窯元山荘

2022.06.15

目の肥えた「目の眼」の読者の方たちに、手仕事の作家をご紹介するのはなかなか勇気のいることである。写しの作家であれば、上手ければ上手いほど本歌との比較になるし、造形的な仕事をする作家であれば「何じゃこりゃ」と言われる可能性も大いにある。それでも時々、これならば古いものと並べても負けないのではないかと想われる作品と出逢うと、つい人に教えたくなるのがもの好きの性であろうか。

豊岡鞄のルーツである杞柳細工の行李、幻の焼きものになりつつある出石焼、アパレル業界では知る人ぞ知る中田工芸の木製ハンガーなどの新旧取り交ぜた手仕事を見学するために、兵庫県豊岡市に初めて行ったのが10年前くらいのことだった。その旅をアテンドしてくれたのは、豊岡市役所の観光課に勤めていた女性だったのだが、旅の最後に案内してくれたのが今回ご紹介する陶芸家・淺田尚道さんの兜山窯元山荘であった。豊岡市から県境の峠を一つ越えれば箱庭のような風景が広がるが、それが久美浜だ。京都最北端の町で、湖のような久美浜湾の付け根にポッコリと形の良い小山が見える。それが兜山で、その麓に兜山窯がある。この辺りは山陰海岸国立公園の一角にあり、風光明媚な美しい処だ。その女性から後から聞いた話では、偏屈者同士で気が合うのではないかと思ったので連れて行ってくれたのだという。それが淺田さんとの初めての出逢いであった。

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淺田さんは久美浜で生まれ育った。お祖父様は趣味人で書画骨董に親しみ、自らもそれに興じるような人だったらしい。
「父も祖父も病膏盲に入るぐらい絵も焼きものも好きやったんですが、戦後、農地開放で土地を取られてしまい、大好きだった陶芸でなんとか食べられないか、と思いたち京都府から補助金を戴き、父と祖父で工場経営を始めました。農地解放が昭和23年くらいでしたから、直後の昭和24、5年の頃のことだと思います。出資者を募って工場を建てて、窯もご飯茶碗が2万個入るような窯をこさえて。磁器だったので、陶石の採掘も人夫も雇い、伊万里でやっているような本格的な工場でした。その頃は五条坂がまだ復興してなかったので、多少は売れたようです。京都の料理屋から結構発注があったのですが昭和30年代に五条坂が復興すると、いっぺんに注文が入らなくなって倒産です。祖父は失意の中で病気になり、その後亡くなりました」
淺田さんが生まれたのが昭和35年だから、子供の頃はいろいろあったのだろうと想像する。地元の小中高で過ごし、大学では文学部を志望したが叶わず、嵯峨美術短期大学に入学。最初はあまり熱心な生徒ではなかったらしい。ところが担当教授でもあった岩淵重哉さんに可愛がってもらい、ある時、淺田さんが醍醐にある岩淵先生の工房に遊びに行った時、先生の作品の中に全く雰囲気の違う一つの器を見つけたが、それは富本憲吉の作品だった。富本の弟子だった岩淵さんから、何故その作品がここにあるのかという、ここでは書けないエピソードを聞き、これを仕事にする覚悟が出来たという。結局短大で2年、専攻科で2年、総合美術研究所の研究員としてさらに2年、計6年焼きもの漬けの日々を過ごしたのち、淺田さんは久美浜に帰って窯を開く。

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淺田さんの作る焼きものは、大きく分けると二つのラインがある。一つは茶碗を中心とした茶道具。もう一つは壺である。この壺は一つ作るのに3カ月かかるというが、その時間の大部分は土作りに充てられる。自らが住むこの土地の土を掘り、指で小石や根などを取り除き、白土と黄・赤などの雑土に仕分ける。さらに白土は瓷器(じき)系に、雑土は土師器系に分けて使い切る。唐臼(からうす)や水簸(すいひ)などを一切行わず、土の粘りを出すために土を寝かすことさえしないという。それはなぜなのだろうか。
「精製してしまった土はもはや死んでおり、人間の言う通りになり易い。それでは力のある焼きものは作れない気がしています。ある著名な物故作家も最初は地の土でやったんですよ。それで身体を壊してしまったので、買った土でやり始めたんです。そしたら前の作品の方が圧倒的に良かった。自然の土というのは、こちらから力を奪っていきます。やってて分かるんです。身体が壊れる。だからみんなやらないんですよ。でも私はそれをやりたい。昔は人の生活がより自然と共にあったわけで、今の我々よりもっと対等の存在として土と向き合っていたのでしょう。土に対する尊敬の念がないと良い作品は生まれないし、土への作法を間違えると何も与えてもらえず、それどころか怪我さえしかねないんですよ」と淺田さんはいう。

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実は淺田さんに連絡を取ろうと思うと、手紙を書くしか手立てはない。インターネットやメール、携帯とは無縁の生活を送っている。テレビさえない。今の私たちになくてはならないものが一切ないにもかかわらず、ここには豊かな時間と太陽の光が溢れている。母屋の他に茶室、工房、展示室が兜山の自然と一体となり、小さな庵のように点在しているが、昔からここにあるべくしてあったような佇まいを見せている。淺田さんはいったいどんな暮らしをしているのだろうか。
「朝、夜明けと共に起きて、まず道路の清掃・庭掃除を毎朝3、4時間するんです。シャワー浴びて、朝ごはん食べて、仕事に入るという毎日です。お恥ずかしいことですが、土と向き合うこと に、しゃんとしていたいんです。生きた土の量塊、沈静させる厳しさ、そんな理想を形にしていくには、少しは人様と違った暮らしに身を置いた日々を重ねるしかないと思うんです」

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淺田さんはコロナ禍の最中も、いつもと変わらない暮らしをしていたという。
「中世に庵というのが出来始めました。何故そうなったかというと、今の状況と一緒なんです。政治や経済が乱れ、戦が起き、疫病が蔓延して、皆どうでもよくなったんでしょうね。だから都から離れて、嵯峨野や大原に小さな庵を結び、そこに逃げ込んだ。自分だけの生き方をしようしたんですね。でもそこから西行や鴨長明の文学が生まれた。その後も庵を続けているうちに出てきたのが珠光、紹鷗、利休の庵の茶です。桃山時代も先の大戦もそうでしたが、何故か大きな災の後に人は新しい文化を生み出して来ました。渦中にいるとそれどころではないのですが、歴史として振り返った時に、悪いことは必ずしもそればかりではないんじゃないかと思うのです」

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バウハウスの3代目の校長でもあったドイツの建築家のミース・ファン・デル・ローエは、 “Less is more” の名言を残したが、「削ぎ落としていったものが一番豊かである」という言葉は淺田さんの作品にこそ相応しいと想う。鎬の壺の厳しい線を見ていると、それが淺田さんの修行の跡なのか、悟りへの道なのか私にはわかるはずもないが、ただの装飾ではないことはよく伝 わってくる。削ぎ落とし過ぎて、身体を壊さないようにと願うばかりであるが、それもまた淺田尚道という人の持ち合わせた運命なのであろうか。

(上野昌人)

店名 兜山窯元山荘(かぶとやまかまもとさんそう)
住所 〒629 -3442 京都府京丹後市久美浜 >>Google Mapへ
電話番号
営業時間 町兜山々麓開門時間:10時~17時
アクセス:丹後鉄道かぶと山駅より徒歩15分  ※アポイントは郵便のみにてお願いします