其の四拾壱祈織(いのり)
2019.12.26
個人的な感想ではあるが、京都に住んでいると和服の方と出会う機会が多いような気がする。それはやはり暮らしのすぐ傍に、お茶やお能などがあるからかもしれない。「和服が似合いそう」とよくいわれたりもするが、生来の怠け者であり、風流とはほど遠い暮らしをしているので、コスプレでもない限りたぶん私が和服を着ることは先ずないだろうと想う。
しかし見るのは好きである。特に和服の似合っている女性は、年齢を問わずそれだけで美しいと想えるからだ。日本民藝館の着尺の展示も好きである。丹波布や芭蕉布、久留米絣や弓浜絣などの絣は本当に美しいと感じる。平織りは経糸と緯糸のシンプルな織物であるが、どうしてこんな美しい文様が生まれるのか、理屈では分かっていても本当に不思議だ。
染織に詳しい方からこんな話を聞いたことがある。「染色」と「染織」ではその手法も違うが、作り手にも向き不向きがあるのだという。「染色」は芸術家タイプ。生地に絵や文様を描き上げてゆくのは絵描きの仕事と似ている。実際、少し前までの日本画の絵描きの多くは、着尺や帯の意匠を生業としていた。つい先頃、この稿でも取り上げさせて戴いた堺町画廊で「京都で生まれたアフリカンプリント」にまつわるお話会があったのだが、そこで日本画の竹内浩一さんが若い頃に京都産のアフリカンプリントの元絵となるライオンを描いていたという話をお聞きして私はとても驚いた。一方、「染織」は職人タイプ。こつこつと織り上げてゆくのは職人技であるが、こちらも以前取り上げさせて戴いた、いとへんuiverseの「西陣絣」も同様である。要するに「染色」に向いている人と「染織」に向いている人のタイプがあるということだ。
ある時、SNSで知り合った渡邊紗彌加さんから展示会のお誘いを受けた。3年ほど前のことである。まだ若い方であろうに、パソコン上で見る織物は繊細で美しく、ぜひ実物を見てみたいと想い会場の京都文化博物館に出かけた。
渡邊さんの作品は、吉田手織工房の生徒さんによる展示会で発表されていた。私は全く存じ上げなかったのであるが、吉田紘三さんという方は弟子入りをしないで染めと織りを教えるというスタイルで、28歳の時から教室を開いておられるそうだ。以来40年余、全国9カ所に教室を開き、多くの生徒の疑問に答えながら指導しているのだという。こんな素晴らしい方がおられるのだ。そして展示会はその教室の生徒さんたちの発表会であった。
実際に初めて見た渡邊さんの織物は通常よりも細い糸で織られていて、そのせいか密度が濃く、マチエールを重ねた絵画のように私には見えた。渋さの一方で、とても儚気(はかなげ)なものも感じた。初めてお会いした渡邊さんはどう見ても20代後半か30代前半くらいのご様子なので、その少女のような俤と作品が持つ印象のギャップに私はとても驚いた。正直、もっと年配の方が織られたものかと想っていたのである。その後、何回かお目にかかる機会もあったが、この若さで話し方といい、その物腰といいこの人はどんな生き方をしてきたのだろうと興味が湧いた。
渡邊さんは芸術家のご両親とお姉さんに囲まれて育った。お父様は油絵を、お母様は日本画を美大で学んでいた。そんなご両親だったから、何をして生きてゆくのか、どういう創造的な生き方をしてゆくかを早く決めないといけなかったという。それ故、渡邊さんは幼少からピアノ、絵画など習い事をいろいろしていた。最初はピアニストを目指していたが、あまりにも感覚的に弾き過ぎるので、練習すればするほど下手になっていったらしい。そこで自分の可能性を確かめるために通信制の高校に通い、そこで初めて「織り」と出遇うことになる。渡邊さんは「この世にこんなに面白いものが存在するのかという衝撃的な想いでした。ただまだその時は染織で生きていこうとは想ってなかったのですが」という。そして卒業後、お父様のアドヴァイスもあり嵯峨美でテキスタイルを学ぶことになる。大学の夏休みは長い。渡邊さんは丸2ヵ月を無駄に過ごすことに堪えきれず、大学の先生にお願いしてその間学校に通い、最初の糸巻きから糸の準備、織りと一応教えてもらいながら着尺を織り上げた。そして、それが「染織」を天職と定めるターニングポイントとなったのである。どうやら渡邊さんの人並み外れた集中力はその頃から発揮されていたようであったが、体調を壊し入院することになる。退院後、まずは身も心も健康になるようにと大学を辞め、広島のフリースクールで1年間過ごす。それが19歳の時だった。
渡邊さんの織物を初めて見たとき感じた尋常ではない美しさは、このような家庭環境が育んだものなのであろうか。知人の彫刻家は弟が陶芸家、お父様が画家という環境で育ち、家族が一番厳しい批評家だと云っていたが、渡邊さんもきっと同じような環境で育ったのではないかと想われた。「子供の頃から暮らしの中に、芸術と音楽と信仰がありました。宗教の区別は付けておらず、私個人にとっては、神仏を想って祈るというところが唯一大事なのです。父は学者という肩書きではないのですが、凄くストイックで研究肌の人間です。私もその影響を強く受けています。骨董・古美術に囲まれてそれしか見て来なかったので、現代作家の作品を見るようになったのはつい最近、ここ1、2年のことなんです」と渡邊さんはいう。
そのフリースクールに行ったあと、恩師でもある吉田紘三さんと出逢うことになる。2、3冊くらい連続で雑誌に吉田さんが出ておられるのを見た渡邊さんは、「初心者でも着物を教えて下さる先生ということで取り上げられていました。そして、自分のコピーを造る気は無い。というお言葉を拝見して、この先生なら私はついていけるかも、と想って。それで最初は生徒として通わせて戴くことになりました。それが14年前のことです」。遅れて来た少女の青春が漸く走りだすが、その3年半後に事故に遇ってしまう。
「滋賀の実家から朝8時には工房に着いて、18時くらいまで機を織って家に帰り家事をするという日日を、20歳の秋から1年半続けました。そのあと約2年、住み込みの内弟子に入らせて戴きました。自分の作品を創る時間は殆ど無かったのですが、年に一作は自分の作品も創らせてくださり、その間あらゆる技術を教えて戴きました。23歳の終わりに、さてそろそろ独立しようかと想っていたところ、バスの事故に遭って、腰と頚がヘルニアになりました。リハビリに1年くらいかかってしまって、人生の前半は本当に学びの場が多かったです。ひっきりなしにいろんなことがありました」と渡邊さんは振り返ってくれた。
29歳の時に初めての個展を京都でおこない、それがきっかけで新しい出会いがあり、百貨店の催事の仕事に繋がる。また新しく始めたSNSによって直接注文が入るようになった。少しづつ生活も安定してきたので、自分の工房を持たなければいけないと想い、ご縁を戴いて今の工房を構えたのが昨年の話である。なぜ今の場所を選んだのかとお聞きすると、「周囲を気にせず機織りが出来る環境と、染色に使う水が柔らかいこと。自身の精神状態を保つためにも静かなところが理想的でした」という答えが返ってきた。
渡邊さんの話を聞いて想うのは、つくづく「織り」という仕事は人生とよく似ているということだ。紆余曲折ありながらも少しづつ前に進む、そして日日の積み重ねが素晴らしい織物を生み出す。ただ少し違うのは、織物はよくないと想えば元に戻れるが人生は戻れない。しかしやり直すことはできる。前回のKAHO GALLERYで展示をされていた高見晴惠さんの作品を見た時、美しいものを造ろうとしなくても、日日の暮らしの中で折られた紙を並べるだけでそこに美が宿るということに私は気づかされた。考えてみれば、「折る」という行為も「織る」という行為もとてもよく似ているのではないか。そして渡邊さんにとって「織る」ということは、まさに「祈る」ことそのものなのである。
店名 | 祈織(いのり) |
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住所 | >>Google Mapへ |
電話番号 | |
URL | https://www.someori-inori.com/ |
※作品のご注文はHPからのお問い合わせ、あるいはメールにてご相談ください。メール:spirit-tao@hotmail.com ※ギャラリーYDSの奥にオープンした「京ころも 久住」で渡邊さんの作品を販売しています。 https://www.hisazumi.co.jp ※2020年2月15、16日「工芸青花の会」にて ギャラリーYDSのブースにて渡邊さんの作品を販売いたします。 |